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松井政就の週刊日記 『よく遊び よく賭けろ』
Vol.585 高橋大輔が人々に与えてくれたもの

本来いるはずの人がいない時、人は寂しいと感じる。
ぼくもいま、この上ない寂しさを感じている。

フィギュアスケートの高橋大輔選手が現役を引退した。
これからぼくたちは高橋大輔がいない冬を迎えることになる。

故郷岡山県で行われた記者会見で、高橋選手は「引退しても一度だけ現役復帰できる規定がある」と口にするなど、競技生活に思いが残っていることを感じさせながらの引退となった。

選手生命を奪われかねない大けがなど数々の苦難を克服し、日本のみならず世界のフィギュア界をリードしてきた高橋選手にとって、ようやく重荷を下ろす時が来た。


高橋はなぜ国を問わず人々を魅了したのか?

世界には高橋ファンが大勢いる。
彼がなぜ国を問わず多くの人々を魅了してきたのかを改めて振り返ると、彼がスポーツとしてのみならず、
「芸術表現」としてのフィギュアを体現してきた唯一無二の存在
であったことがわかる。

世界には氷上アーティストと呼ばれる選手がいる。彼らはたしかに素敵な演技をするが、時として「既視感」を感じることがある。

なぜなら、選手個人の世界観が演じられている場合が多いからだ。
そのため、シーズンが変わって楽曲が新しくなっても、以前と類似した世界観になる。

もし、”曲が違うのに去年と同じような演技”に見えたとすれば、理由はそれだ。


高橋が超えた文化の壁

表現においては文化の壁もハードルとなる。

選手は必ずどこかの国で生まれ育つ。そのため、「感情や心情の表現」においても「体を使った動作表現」においても、自分が生まれ育った国の文化や風土の影響から逃れることができない。

よって、選手個人の世界観は、同じ国の人々には理解されても、異なる文化や風土を持つ国の人には理解されにくいことがある。どんな一流スケーターであっても、異なる文化の人々に世界観を理解してもらうことの困難さに直面するのだ。

だが、高橋大輔はその壁を越えた。


なぜ高橋の芸術性は文化の壁を越えるのか

高橋の演技が文化の壁を越えたわけは、音楽に対する深い造詣と無縁ではない。

高橋が演じるのは、彼個人の世界観ではなく、
「楽曲の持つ不動の世界観」なのだ。
つまり高橋は、
「その楽曲が生まれながらにして持つ、表現されるべき真の世界観」を表現しているのだ。

彼はその卓越した表現力により、作曲家に成りかわり、「楽曲の世界観」を人の目に見えるかたちで「視覚化」して見せていた。
だから国や文化の壁を超え、人々の心にダイレクトに届いたのだ。


言葉など不要な高橋からのメッセージ


高橋大輔の演技を素晴らしいという人は世界中にいる。だが、どこがどう素晴らしいのかを言葉でうまく説明できないという人が多い。

「華麗なステップ」あるいは「深いエッジ」など、高橋を説明する時には幾つかの言葉が使用されているが、それらはあくまで高橋の素晴らしさのほんの一部分に過ぎず、彼の素晴らしさの全体像を説明することの困難さに誰もがもどかしさを感じてきたはずだ。

だが、それも当然だ。言葉で説明できることなど、しょせん、言葉という記号に置き換えることが出来る程度のものでしかないからだ。

高橋の演技は、言葉では伝えられないことを世界観の共有という形で相手の心にダイレクトに伝えるという、極めて高度な芸術的行為なのだ。


極限のリアリティ


最大の特徴はリアリティだ。

高橋はまさに「生きた主人公」となって「楽曲の世界観」を紡ぎ出す。その極限まで高められたリアリティを前に、人はそれが演技であることを忘れ、彼が視覚化した楽曲の世界観に惹き込まれていく。

やがて演技が終わり、それが数分間という限られたものだったことに人は気づく。

しかし、高橋と世界観を共有した体験は、リアルな肌感覚となって、見た人の中に永遠に残る。それは、高橋の演じた世界が確かにそこに存在したという証となる。


高橋大輔が人々に与えてくれたもの

彼の現役時代をともに過ごし、最高の時をわかちあい、苦しい時には祈ることができた私たちは、フィギュアファンとしてとても幸せだった。

高橋選手が出る競技会には、期待に胸膨らませた人々が多数駆けつけた。

彼の演技が近づくと、会場は一瞬静まりかえり、演技が始まると拍手と歓声、そして歓喜の渦が巻き起こる。

私も幾度となくその中にいた。
そして、ある場面を幾度となく目撃することとなった。

人はうれしい時には喜び、笑顔を見せる。しかし、あまりにもの幸福を感じた時、人は、喜びを通り越し、涙を流す。

高橋大輔が演技を終えた後、大歓声とともに立ち上がった多くの人々が、拍手をしながら大粒の涙を流していたことを、いつか彼に伝えたい。



2014.10.15 松井政就






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