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松井政就の週刊日記 『よく遊び よく賭けろ』
Vol.634

2020年東京五輪の隠された課題

実は「国別メダルランキング表」の作成は禁止されている

日本選手が金メダル12個を含む合計41個のメダルを獲得したリオデジャネイロ五輪が閉幕した。

五輪を語る際、このようにメダル獲得数を伴うのが当たり前で、テレビなどでは国別の獲得数がランキング化されて報じられる。それはごく当たり前の光景だが、実は五輪憲章により、「国別メダルランキング表」の作成が禁止されていることはあまり知られていない。

国威発揚に悪用された反省から

過去においてナチスドイツが五輪をあからさまに国威発揚に悪用した反省などから、五輪が国対国の争いとされることに五輪憲章はクギを差し、あくまで選手間の競争であると定義している。
その上で、獲得したメダルも国のものではなくあくまで選手のものであるという考え方から、国別のメダルランキングを禁止しているというわけだ。

しかし、現実は国同士の戦い

しかし会場を埋め尽くす観客は、自国の国旗を振り自国の選手を応援しているのが現実だ。いくら選手個人のための戦いと言ったところで、ユニフォームに国旗が付けられ、勝てば国旗掲揚と国歌演奏が行われるのだから、国と全く関係ないといわれても通らないだろう。

日本シンクロチームの井村雅代ヘッドコーチも『シンクロの鬼と呼ばれて』(新潮文庫)の中でこう語っている。
「(五輪は)国と国との戦いだから、私はいつも『世界にアピールできるような日本の魅力って何?』ということを考えていました」

他にもラグビーやサッカー、あるいは団体戦など、明確に国を背負っているものもある。過剰なナショナリズムは避けながらも、代表チーム同士の戦いを楽しむ時代になったと考えればいいだろう。

肥大化する「見栄」と「コスト」

そんなわけでいざ大会となれば国のプライドも関わってくるが、それがいい方向にばかり働くとは限らないのが、この問題の厄介な点だ。

なぜなら「プライドと見栄は表裏一体」だからだ。

プライドが見栄に変わった途端、「恥ずかしいようなものは作れない」として過剰なことが行われる。
その最たる例が世間を騒がせたあの新国立競技場を巡る一連の騒動だ。過去4大会ではそれぞれ数百億円で済んでいたメインスタジアムの建設に東京は一時2,500億円を越える費用をかけようとしていた。

リオの実質本位を見習う

日本では五輪関連の建設に業者がたかる構造や、都議会議員との癒着が一部で指摘されているが、リオ大会では建築業者にまだ費用が支払われておらず問題になっているケースがある点からも、建築業者を儲からせるためのコスト増大はなかった(あったとしても極めて限定的)と見られている。

しかもリオでは削れるコストは徹底的に削る方針で、恒久的に使われる施設以外は文字通り仮設で済ませ、実質本位の施設整備が行われた。こうした考え方は東京も見習うべきだろう。

五輪を口実にした開発は避ける

その東京だが、当初7,000億円台と言われた準備コストが今や3兆円を越えると試算されている。都や組織委員会は、コスト増大の理由を東日本大震災の復興による資材の高騰のためというが、それだけでコストが3〜4倍になることは説明がつかない。

また東京では五輪が口実なら多少の無茶も許されるかのような雰囲気がある。緑豊かな神宮の杜周辺エリアを五輪のために再開発することや、五輪のために立ち退きを迫るような事態が起きつつある。

五輪憲章には過剰な開発への警告が記されている。

「IOCの使命と役割」の中で「環境問題に関心を持ち、啓発・実践を通してその責任を果たすとともに、スポーツ界において、特に五輪競技大会開催について持続可能な開発を促進すること」と、環境保全を求めている。

間違ったおもてなしを避ける

私は2008年、五輪を直前に控えた北京を取材したが、その際、目を疑う光景があった。明の時代から続く歴史ある街並みが重機で次々と壊され、コンクリートの建物に建て替えられていたのだ。

外国から北京に来る人は、そうした古い街並みを楽しみにしているのに、当事国はそんな当たり前のことさえわからなかったのだ。

しかし日本はそれを嗤えない。同じことが東京で起きているからだ。
一例が、風情のある原宿駅が取り壊され利便性を理由に大きな駅ビルに建て替えられると発表されたことだ。これには、北京と同じ愚を犯すのかと大変なショックを受けた。

五輪を口実に歴史ある建物を壊すのは、おもてなしとはほど遠い行為であり、それが訪日外国人の利便性のためと言うなら、彼らにとって「ありがた迷惑」な話である。

なぜなら彼らがわざわざ日本に来て見たいのは、ただ便利なだけのビルではなく、歴史を刻んだ日本の建物であり風景だからだ。

「レガシー」という言葉の間違った使い方をしない

日本の組織委員会は、新たに建設する施設について「レガシーとなるようなものを作る」と度々述べている。一瞬、いいことを言っているかのように聞こえるが、これは実におかしな言葉である。

なぜならレガシーとは本来、「過去から受け継いできたものの中で保全して後世に残していくべき歴史的な存在物」を指すからだ。よって「レガシーを作る」という言葉自体、大変おかしなものなのだ。

土木建築ではなく選手への投資を!

五輪は重要なイベントだが、冷静に見ればたった2週間のイベントである(パラリンピックを加えても約3週間)。重要とはいえ、たった2週間のために未来への負債を残すわけにはいかない。

終わった後に「使われない施設」や「過剰なインフラ」が負の遺産となる問題は避けるべきで、むしろ投資は長期的に生きてくるものに使われるべきだ。

その最大の投資先は人間、つまり「選手」である。

昨年、新国立競技場の建設コストが肥大化するとわかった際、それを捻出するために選手への補助金を削るという本末転倒な意見が国会議員から出され、世間をあ然とさせたが、そうした発想は根本から改めるべきだろう。

選手に向けられる強化費は、現在のところ土木建築に使われるコストの10分の1にも満たないという試算もある。こうしたお金の使い方も見直すべきだろう。

今大会で躍進が目立った卓球なども育成段階からの裾野の拡大が効果を上げたと言えるように、スポーツの振興とレベルアップには選手への投資が最優先されるべきだろう。

他国では「メダル年金」の例もある

共産圏ではたびたび国家プロジェクトとして選手の強化・育成が行われ、金メダルを取れば国が一生面倒を見てくれる場合もある。そうした国との比較は無理でも、選手へのサポートにおいて日本は手薄だ。

例えば韓国には「競争力向上研究年金」という制度があり、五輪で金メダルを取ると1ヶ月100万ウォンを生涯にわたって受け取ることが出来る。
しかもメダリストの担当コーチにも報奨金が与えられるため、まさに選手もコーチも真剣に取り組む効果を上げている。

同じ方法である必要はないが、自国開催の五輪が選手への投資を手厚くする契機になることを期待したい。

2016.8.21 松井政就






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